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彼らの重力が伸び、後ろに座っている

 

 

「また」の約束もしないまま夜は終わって朝が来るのだろう。
半覚醒を示す眼に容赦なく黄色い太陽光は突き刺さる。この朝を再び思い出すことはそう遠くない。
記憶が曖昧に溶けて嘘も本当も無くしていく。それだけが救いでもあり死因にもなる。

何が事実か虚構なのかを明らかにすることだけが人生の正しさではないだろう。
白黒どちらかを求められる毎日だが主にあるのはどちらかよりのグレー。
完全に染まる方がむしろ容易いと思ってしまうくらいに、曖昧な領域で生きている。生かされている。

 

上の文章はミツメの「エスパー」を聴きながら書いた記憶がある(携帯のメモ帳に残っていた)。

『約束さえもしないまま/夜は更ける』という歌詞がすごく刺さってくる時期だった。

 

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はてなブログから「1年前に書いた記事を振り返りませんか」みたいなメールがたまに来る。昨日も来た。

更新頻度が低いから1年前と言われてもすぐに遡れるけど、素直に従ってその記事を読み返したら新しいバイトを始めたことと5月の気候にやられていることが書かれていた。バイトはまだ継続中だが、相変わらず5月の気候にはぼこぼこにされている。

季節と季節の間はどうして過剰に感傷的になってしまうのか。そしてその感傷ははたしてポーズではないのか、と既に蒸し暑い自室で扇風機の風に当たりながらそんなことを考えてしまう。

 

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いつも極端な結論を出して動いてしまうのだが、周りの人間の話を聞いていると、どうやらそういうことは大人はしないらしい。効率化、時間の短縮、無駄な労力を使わない、それが大人なんだそうだ。自分も自然にそうなってゆくものだと思っていたし、そうなればもっと生きやすくなるんじゃないかという希望的観測もあった。

が、一向にそうなる気配はなく、相変わらずじたばた四肢を動かして地面を這いつくばっている。全然進んでいない。周りはちゃんと2足歩行でどんどん前に進んでいる。

ここまで書いたが決して「大人にならない自分かっこいい」とかそういう話ではない。精神的成長が圧倒的に遅れている。切実に困っている。

こう書いたものの結局自分に足りないのは「我慢」なのではないか?と思う。20代も半ばで小学生ですら出来るようなことで悩んでいる。周りと悩みの話が合わないのはこういうことか。ここまでくると笑うしかない(笑ってる場合ではないのはよくわかってるけどとりあえず笑わせてくれ、先日26歳になりました)。

我慢ができずに行動してしまうのは根っからの破滅願望も強い。本当は悪い方に転んで欲しくなんかないのに(もうどうにでもなってしまえ)(どうせまただめなのだから)(自分にはそういう結果が似合っている)(これは戒めなのだ)という前提があるものだから、結果が分かっていても止められない。しかしそれは関わる人間にも迷惑をかけている。その事に気付くのに時間がかかってしまった。今までどれほどの人たちを傷つけて今ここに立っているのか、と考えて眠れなくなる日もある。償うとするならこれから少しでも傷つけないように頑張って生きる、以外にないのだけれど。それでも振り返って真っ暗な空間を見つめてしまう。

こんなことをもう何年も繰り返し思ったりこういうところに書いたりしているけど、毎晩泣いていた10代の頃や大学生の頃に比べたらだいぶ精神は安定してきている。でもそれは殆ど諦めから来ているのだろうし、未だに不安や寂しさにぺしゃんこになってしまいそうな毎日だけど、それでもかなりましになった。

昔、周りの年上の人たちは「若いうちは辛いだろうけど歳を重ねれば楽になってくるよ」と言ってくれていたのだが(今も言われてるけど)、当時はありがたさもありつつ「今すぐこの状態から脱したいのにいつまで苦しめばいいんだよ」という終わりが見えない絶望感もあった。最近はそう言っていた意味もわかる。

自分も歳下の人の話を聞いているときにその言葉を言おうか迷うときがあるのだけれど、それを言って将来もしまだ辛かったら嘘を言った事になってしまうかもしれない、と考え始めるとあまりうまくなにかを言ってあげることができない。そこまで責任を持つ必要は無いのかもしれないけど、当時の自分を思い出すとやっぱり躊躇してしまう。

でも自分が何かを言ったところで解決するのは(どうにかするのは)その人自身でしかないのだ。みんななにかしらの方法や気持ちの在り方をみつけて、それぞれの着地点を見つけてくれたら良いなと思う。そしてそれは時間が解決してくれることが多かったりする。

なんて偉そうに書いているけど、自分自身も結局「全部時間が解決する」と頭で分かりつつも苦しんだり突飛な行動に出たりしている。また破滅願望の話になるのでこの話はもうやめる。

 

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毎年作品を出している/スタッフをやっている母校のOBOG展に今年は映像を展示した。

 


これで終わり

 

出演/脚本/写真/監督は自分。

撮影/編集は高校と大学の同期である友人にやってもらった。

 

死ぬ前の人間のどうということのない行動と、後半は日記のようなナレーションと写真、という構成になっている。

後半のナレーションはこのブログから取ってるものもある。念のため言っておくがこの映像は私が演じているが私自身のことではない。つまりこの映像の行動や思考はノンフィクションではない。このブログの文章使ってる時点で説得力ゼロだけど。

ただ「自分で死ぬ直前って意外とこれまでの日々と同じように過ごしてしまうんじゃないかな」とか思っていて、自分が演じることで(フィクションでの)自殺体験をしたかったのかもしれない。実際行動に移すかどうかは置いておいて、マジで死ぬ時ってどういう感じなんだろうな、みたいな。本当に死のうと思ったことは腐るほどあるけど。

 

映像の雰囲気やカットは黒沢清のような感じをイメージしながらカットや色味を考えた。黒沢清の映画を見始めたのは去年くらいからでまだはまりたてなのだけれど、あの人の撮るロングカットの不穏さや緊張感をはらんだ感じが本当に好き。

最近学生時代からの自分の撮ってきた作品を見返したら、黒沢作品によくある不穏さや「日常の中にあるものが徐々に変化していく恐怖」とほんの少しだけだけど通じるものがあって、そりゃ好きになりますわな、と思った。あと自分がドイツ写真(ざっくりとした分け方だけど)が好きなのも何となく近いような気もしている。

 

実は高校の頃短期間だけ映像研究部にもいて(メインは写真部)、いくつか短い映像を作ったりしていたけど、どれもふざけたやつだった上に1分くらいだったので、映像部分は5分くらいだけど、こんなに時間がかかるのか、、、と映像を作っている人はすごいと改めて思う。あと映像は何人もの人たちで作っているのが多いけど、ひとりで写真撮ってる身からすると体力や気持ちの使い方が全然違うのだろうなと感じた。

そんなすごいことをしている友人の仕事ぶりがわかるサイトはこちら↓

http://www.t-hosonuma.com/

 

あと自分で作った話なので自分が演じたほうが早い、と思ってたけどやっぱり演技は難しい。

 

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今年の元日に引いたおみくじの恋愛の項目に「ちょっと待ちなさい」とだけ書かれていたのだが、恋愛に限らず全てのことで本当にこれを心がけないとまた泣く羽目になりそうだなと思っている。既に泣きたい出来事はたくさん起こっているけど。要は自分の感情を信じてはいけない、自分のことだけ考えない、ということに尽きる。あと期待という言葉でただの自分の希望を押し付けない、うやむやにしない。

こんなこともできないままここまできてしまったのかと思うとつくづく情けなさで生きているのが嫌になるけど、治す努力をするしかない。ただそれだけしかない。逃げるんじゃない。