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それはそれであるしそれはそれでもない

 

 

「この人の人生に私が登場する必要がない」と悟った時CS放送の自然の番組もしくはNHKで観たような南極だか北極だかの氷の丘が海にけたたましい音で崩れていくイメージが浮かぶ。永遠に氷に戻ることはないし温暖化の深刻さを解くナレーションまで脳内に再現されてどんどん遠くの世界の出来事みたいに実態を持たなくなっていく。それが自分の脳が選んだ逃避の形として今は受け入れよう。

 

 


肉体に及んでいる重要な出来事に直面してももっと酷く醜くなれば面白いのかなあとまで遠くで立っている自分は思っているような気がする。地面を這いずり回っている自分をせせら笑いつつ遠くの自分はこちらに干渉してこない。何にもわかってないくせに客観視していることに価値を感じている奴(これも自分ではあるのだが)がこちらに言えることは何もない。

 

 


ある本を読んでいて「写真は詩である」という言葉に少し救われた気分になった。写真も詩もどちらも中途半端なものしか産み出せない自分ではあるが共通する事項を感じ取っている人が他にもいるということにまだここにいてもいいのかもしれないという安心を得た。ある一時を切り取るのは写真も詩も似ているとその本には書いてあった。普段無意識に見ているが記憶に留まっていない故に写真や詩に触れることによって現実の細部が明らかになる仕組みが好きだと思う。見えているのに見えていないということは不思議だと写真を始めた時からずっと考えていたことだった。肉眼だと見たいものしか見ていない/記憶に残さないということなのだろうがそうなると個の身体を基にして生み出されるものというのはとても曖昧で偏りがあってそれを寄る辺にするにはあまりに不確かすぎるのではないか?とも思う。個を通さない写真や詩に興味があるのは自分がドイツの即物主義的な写真を好むことにも通づるのかもしれないと思った。パッチュやベッヒャー夫妻の建築写真。詩なら小笠原鳥類のある一定のシステム的な(オートマチックな?)詩。個が産み出すものでありながら個を遠ざけているようなもの。勢いで書いているので色々おかしい部分はあるとは思うがこの文章を書きながら自分の中で少し点と点が繋がったような気がした。

 

上記のことを書きながらも自分が撮る写真や短歌は非常に個の身体性に依存したものだと感じる。自分がそちらに行けないから真逆のものを好むのだろうか?己の視点の矮小さや知識の無さ、自頭の悪さから安易に生み出せる(と思ってしまっている)という「逃げ」の姿勢から自身の身体性に依拠したものを作っているのではないかと思う。しかし元々の自分自身というのが薄っぺらく中身の無い人間性であるが故に産み出すものも安易な解像度の低い(便利な言葉だ)表現に留まっていることを思うと(そしてそのことに随分前から気付いてしまっていることも含めて)良い加減どうにか別のことをしなくてはならない。しかし仕事やその他の生活を理由にして茫漠たる脳を放置している現状を鑑みるとその行動に至るには時間がかかりそうな気配もある。だがそんなことを言っているうちに来週にはまたひとつ歳を重ねるし脳の細胞はどんどん死んでいく。死んでいくのだな。