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目を閉じるたびに

 

実家に白い犬がやってくる、黒い犬の記憶もあるうちに。

 


酔うとこの世の全てが許される気がしてしまう。

自分なんかが許されてると思ってしまう。

浮遊に任せた自暴自棄をアルコールのせいにして、自分が不快になる。

明日の仕事を無かったふりをしてアルコールの摂取を宣ってしまう。

誰も得をしない23時。

0時にひとりで山手線に乗る。

目白で電車が止まって8時まで眠れるはずの睡眠時間は削減されていく。

代々木へ到着するにはあと5分。

まだ布団にたどり着けそうにない。

不都合な手を取りに行く必要はない。

アルコールは味方をしてくれない。

代々木にはまだ着きそうにない。

明日には痛みを伴う爛れた手がベッドに横たわっている。

動かない肩、吐き気を催す胃、ここは宇宙ではない。

げんじつ、という字を、脳内で丁寧に一筆づつ書いてから目覚めることの常習性。

新宿はみんなが降りる(はずだろう)駅。

ここは乗り換えなんだって(まだ終電はある)。

停止信号で新宿か新宿かないかのところで留まっている、

新宿だったらみんな一斉に降りたんですか。

まだ人が残ってるじゃないですか。

目の前に座っている人は川越まで座っているのではないですか?

途中で降ります。付き合ってられないので。明日も早いので。

知らない人が体調を崩したらしいです。

早く一生眠りたい。

目覚めないまま宇宙を漂いたい。

宇宙の海って冷たい?

わからないままシーツの冷ややかさを恋しく思う。多分、限界なんでしょう。

明日も数字を見ます。良いか悪いかの判断をします。

停止信号で永遠に辿り着けない家の暗闇を考えた。

多分生ぬるい。

早く窓を開けないといけない。

明日も笑顔で遂げないといけないらしい。

ありがとうまたお越しください袋はご利用ですか?

傀儡としての役割も果たせない人間として今日も残念でしたね、と言われることになる。

快速が止まらない駅を通り過ぎる時に思い出す。それはきっと必要のない!

つま先の冷えを思います。唇も冷えていくのを感じました。

多分話さなくて良いってこと、ここで降りない人は必要ないらしいです。

空間を開けられず舌打ちされても生きています。

隣の人は頭を撫でてくれる誰かがいるらしい。

早く誰もいないところへ行って、誰もいないんだなあって笑いたい。

誰もいないから笑っているということを自覚したい。あなたが見てないなら意味ないよ。

そうやって死にたいと思って、それでもまだ生きようと思うのはきっと自分の輪郭を確かめたいとはじめて思うことができたから。

それも全て誰も知らないまま終わっていくことを誰よりも願って早く電車が最寄駅に着くことを願って目を閉じる。2駅だけの暗闇を許してほしい。

だって誰もいてくれないって知ってしまっているから。

 


駅に着く前にシャッターは降ります。

 

 

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久々に外でお酒を飲んで酔ってしまった。

酔っ払うといらん事ばかり口に出してしまうね

 

思考焼却炉

 

 

虚しさは列を成すだろう、俺は全て1人づつ抱きしめる。

遠くに行ったお前を呼ぶ声は俺の声だったか?

アパートの横に実をぶら下げた木は誰が回収するでもなく、ただ点としての色彩がそこにあった。野良猫は素通りして今日も己の毛皮を舐めている。

決して手に入らないことを信じながら宙を舞う手、ひとしきり済んでから攪拌に満足する。

生きたくない、と思いながら飲み砕く白米はいずれ己を後悔させる。過多なのだ、と呟けば、だからだね、と耳元で囁く声。今日も律儀に責め立てる。

付け焼き刃の性、片目をつぶっていたってわかる。

スマートライフ断る術なし、今宵もよろしくねって電波伝わる前に言う。

 

 

 

満ち満ちてクラッシュ

 

 

 

初めて針持ったんか?ってな具合のパッチワーク、夢だって信じようとしてそういえばしばらく眠っていないことをやっと思い出して睡眠導入剤の代わりになるものを探して脳を弄っている。

 

私がいないまま健康になったり不健康になったりするあの人、おめでとう!宙に浮かんだ祝福を世界規模にして博愛なふりを。(絶対知られない)

 

滅亡、振られる前に死ぬ回。減額交渉は雨天のため断られて忘れるまで順延。割を食っている、と言われました。食べます。食べて笑っています。みんなも笑っている(遠くなってよかったね)(ずっと笑っていてください)

 

咽喉から胃に下る速さでもう全部のことにいいですね、って言った。机の上の皿を反対側に押すように遠ざける。それでも誂えてもらってたんです。その度に透明なゼリーは左右に揺れて、いつまでもいつまでも続く。戻るために。ゼリーに透ける陶器の皿は 留まっている。

 

(いつか掬われるといいですね)

 

 

それはそれであるしそれはそれでもない

 

 

「この人の人生に私が登場する必要がない」と悟った時CS放送の自然の番組もしくはNHKで観たような南極だか北極だかの氷の丘が海にけたたましい音で崩れていくイメージが浮かぶ。永遠に氷に戻ることはないし温暖化の深刻さを解くナレーションまで脳内に再現されてどんどん遠くの世界の出来事みたいに実態を持たなくなっていく。それが自分の脳が選んだ逃避の形として今は受け入れよう。

 

 


肉体に及んでいる重要な出来事に直面してももっと酷く醜くなれば面白いのかなあとまで遠くで立っている自分は思っているような気がする。地面を這いずり回っている自分をせせら笑いつつ遠くの自分はこちらに干渉してこない。何にもわかってないくせに客観視していることに価値を感じている奴(これも自分ではあるのだが)がこちらに言えることは何もない。

 

 


ある本を読んでいて「写真は詩である」という言葉に少し救われた気分になった。写真も詩もどちらも中途半端なものしか産み出せない自分ではあるが共通する事項を感じ取っている人が他にもいるということにまだここにいてもいいのかもしれないという安心を得た。ある一時を切り取るのは写真も詩も似ているとその本には書いてあった。普段無意識に見ているが記憶に留まっていない故に写真や詩に触れることによって現実の細部が明らかになる仕組みが好きだと思う。見えているのに見えていないということは不思議だと写真を始めた時からずっと考えていたことだった。肉眼だと見たいものしか見ていない/記憶に残さないということなのだろうがそうなると個の身体を基にして生み出されるものというのはとても曖昧で偏りがあってそれを寄る辺にするにはあまりに不確かすぎるのではないか?とも思う。個を通さない写真や詩に興味があるのは自分がドイツの即物主義的な写真を好むことにも通づるのかもしれないと思った。パッチュやベッヒャー夫妻の建築写真。詩なら小笠原鳥類のある一定のシステム的な(オートマチックな?)詩。個が産み出すものでありながら個を遠ざけているようなもの。勢いで書いているので色々おかしい部分はあるとは思うがこの文章を書きながら自分の中で少し点と点が繋がったような気がした。

 

上記のことを書きながらも自分が撮る写真や短歌は非常に個の身体性に依存したものだと感じる。自分がそちらに行けないから真逆のものを好むのだろうか?己の視点の矮小さや知識の無さ、自頭の悪さから安易に生み出せる(と思ってしまっている)という「逃げ」の姿勢から自身の身体性に依拠したものを作っているのではないかと思う。しかし元々の自分自身というのが薄っぺらく中身の無い人間性であるが故に産み出すものも安易な解像度の低い(便利な言葉だ)表現に留まっていることを思うと(そしてそのことに随分前から気付いてしまっていることも含めて)良い加減どうにか別のことをしなくてはならない。しかし仕事やその他の生活を理由にして茫漠たる脳を放置している現状を鑑みるとその行動に至るには時間がかかりそうな気配もある。だがそんなことを言っているうちに来週にはまたひとつ歳を重ねるし脳の細胞はどんどん死んでいく。死んでいくのだな。

 

 

 

 

 

You know damn well what i mean

 

全て内面の話である。

期待したり、希望を持ってしまったり、もしかしたらどうにかなるかもしれない、と思ってしまった時、そんな時に金属バットを持った自分が現れる。ヘラヘラしたもう1人の自分の頭をフルスイングする。殴りまくる。ふざけんな、何調子乗ってんだ、お前にそんな権利あるわけねえだろ、と叫びながら殴り続ける。痛めつけられている自分は抵抗せず殴られ続ける。時々殴られている自分が消えそうな声で「自分には◯◯になる資格はないのか」と言っているが肝心な部分が聞こえない。聞こえないけど知っている。何故ならその言葉を発する自分も自分自身だからだ。それを聞いて更に強く殴りつける。大抵言い放つのは「お前はそれを自分から諦めたんだろ」だ。そうなのだ、もうこれ以上傷つきたくないから全部やめることにしたのに、なんで何度も何度も何度も何度も殴っても殴っても殴っても殴っても同じことを言っているんだ。ゾンビみたいだな。生き返り続けるなら殴り殺し続けるしかない。繰り返してどうにかやっていくしかない。これだけ繰り返しているともう生きているのか死んでいるのかわからない。殴られても笑うことしかできない。こんな血塗れなのに顔だけは笑ってるんだな、と他人事みたいに思う。もっと素直に嬉しいこと、楽しいことに向かって行けるならよかった。でもどうしてもそれを目前にすると背を向けて暗い道を全速力で走って逃げたくなる。あまりにもまぶしくて、そこにいたら自分なんかが消えてしまうんじゃないか、存在する必要なんてないんじゃないかと思うと、暗い中にいた方がまだいい。何度かは頑張って向き合おうとした。しかし、結局自分からめちゃくちゃにぶち壊してしまう。他人に刺される前に自分で自分を滅多刺しにして逃げた方がまだいいなんて考えてしまう。気がつけば誰もいない。もうずいぶん遠くに行ってしまったんだな。

散々痛めつけて自分から吐き出された血に縋っている。己の体内から生み出されたもの。痛みを伴わないと自分の感覚すら信じられない。それは酷く矮小的で自己中心的であるが、誰かにそれがわかってもらうためにやってるわけじゃないだろう。自分が何に対してどう感じているのか知りたくて、他人からしたらしょうもない、かっこ悪い、恥ずかしいものを生み出している。

もうわかるとかわからないとか、そういうところで見切りをつけられたり自分という存在を把握されたように思われることに疲れた。ただそうわかりやすくいることは楽でもあるから、無意識にそういう風に振る舞っている自分がいることは否定できない。何かにつける名前、名称、ジャンルは全部呪いだよ。自分が生まれた時につけられる名前だってそうだ。一生背負わないといけない。自分の名前は好きじゃないからなるべく言わない。

頭の中でもう一回自分を殴り殺してから寝ます。さようなら。

 

 

 

知らないふりをしてることを知ってる

 

 

住んでるところでは時々町内放送で迷い人のお知らせが間延びした声で聴こえてくるのだが、事態としては深刻なのにどうにも緊張感が無い。自分の知らない人が知らないところで行方不明になっている。他者があの人がいなくなったと判断して探しているが、探されている本人は自分が行方不明だと思っていないのかも知れないし、意思を持って離れた可能性もある。放送で流れてくる情報は大体高齢者なので考え過ぎと言われればそこまでなのだが、聴く度に自分の知らない人が自分の知らないところを歩いている姿をぼんやりと想像する。

 


自分の身体から発せられるものがどんどん他人事みたいな感覚になっている。仕事が今とてもしんどい状況にあり、毎日やってもやっても終わらない業務を延々とやっているのだが、それすらもどこか遠くで大変なことになっているんだなあ、と思ってしまう現実感のなさ。空腹感もそうで、食べたいものも特に無いのにそれがやってくると「だからなんなんだよ」という気持ちになっている。普段はまあそうは言っても…と適当に食べて美味しいのかどうかもよくわからないまま終わっていたが、ここ数年は「なんで食べてしまったんだろうな」と後悔する事が増えた。満腹感に襲われると罪悪感すら覚える。昼飯を食べに外に出ても食べるものが決められず休憩時間が終わることが繰り返されるので、食事の度に逡巡が起こること自体が面倒だと思うようになってから昼食を食べるということをやめた。しかし実家暮らしによりどうしても晩飯だけは親と揃って食べなくてはならず、それによって帰宅に向ける足取りが重い。親との食事は苦手だが友人と食事をするのは嫌いじゃなくて、むしろその時はまだ食欲に対して前向きでいられる。酒はよく飲むが、昨晩は家で数口飲んでから「結局飲んだところで何も変わらないし、酔ったところで普段抑えている欲求が顕在化されて最終的に自己嫌悪で終わるのだ」と思ったらもうどうでもよくなってしまい気がついたら変な時間に数時間だけ寝ていて、起きたら本来の起床時間よりも3時間ほど早い中途半端な時間だった。

 


精神的には全然元気だし、余計な事を考えずに済んでいる部分もあるので特に不便は感じていない。この状態もそう長くは続かないだろうとは思うが、食べ物の味は十何年前からもうよくわからなくなっていることを考えると悪化しているとも言える。良くも悪くもどうにかなるとして、その時はその時ということで。数時間後の仕事に備えてあと少し寝る。

 

 

 

 

 

 

 

それでも眼を開け続けなくてはならなくて

 

外の雨の音を室内でひとり聞いているときに思い出すのは春特有の中途半端な生ぬるい空気でした。完全さより曖昧さにどうしようもなく感情を揺さぶられてしまう。何を投影しているのかなんて本当はよくわかっている。外の様子を窓を開けずに想像します。した。車は走っていない。誰も歩いていない。もしかしたら誰も住んでいない。まるで遠くの空間に投げ出されたように、ひとりになることに集中します。した。歯を食いしばることに慣れすぎてしまいました。食いしばれる歯が破壊される可能性も鑑みずに今日もぎゅっ、と奥歯に負担をかけました。もう誰も入り込まないように。口を開くことが誰かの悪であると知ってしまってからこのままひとりで死んだほうがいいと考えたりもします。ですがどこかでこの口をこじ開けてくれる舌が、唇が、あるのではないか、という甘ったれた思考を捨てきれず、今日も布団に入って律儀に悪夢を待っています。ほとんど覚えていないんですけどね。でも確実に脳内に巣食っているので朝起きると吐き気がくるのでしょう。飲みきれていないお酒を飲みきるまで何か書こうとブログのページを開いたがコップの中のお酒は減らずもう随分何かを書くことから離れていたせいかここまでの文字を打つのにかなりの時間がかかってしまった。何を話していても何を書いていても全部嘘っぽい。作ってきた短歌、それっぽい言葉を並べているだけなんじゃないか、とふと思った瞬間何もかもわからなくなってしまった。耳障りのいい、人の関心を惹くことだけが目的なのか、と気づいてしまった。結局自分のためだけ何かを作るなんて無理だったのだろうか。誰かに大丈夫だよと言われるためだけに作るものは虚しい。もう知っていたはずだったのに。

全部嘘だったのか?