Δ

あとは寝るだけです

 

 

年が明けて、ふと「これでもう死ねるんだ」と瞬発的に思った。それまで最近はそういう行動を起こしたいと思っていたわけじゃないのに。自分でも無意識に浮かんだことに少し驚いた。死ねる、と書いたけどとっくにもう死んだようなものなのかもしれない。

少し前に正社員になってから、春からの仕事の引き継ぎをしたりちゃんとした会議に参加するようになったりしていて、ああこれが社会人なのだなあと嫌でも感じさせられているが、それと同時に思考はどんどんぼんやりとしてきていて、逃れられない絶望感にじわじわと首を絞められているような毎日を過ごしている。しかし仕事の上でどんどん責任が重くなっているのだし頑張らないと(これは「迷惑をかけないようにしないと」と同義だ)いけない状況で、やらなきゃならないことがたくさんあるが、先述した「もう死ねるんだ」を思ってしまったことで、自分がもう何もかも捨てて無になってしまいたい欲求が再び顕在化してしまった。見て見ぬ振りがやっと上手く出来るようになって、ちゃんと人並みに生きられるようになって、大人になったなあ!と思っていたところだったのに。人生そう簡単にはいかないのだなあ。どうしてこんなどうしようもないんだろうなあ。仕事もあって、家もあって、話を聞いてくれる友達もいて(こういう事を書くと悲しんでもくれるのに)、こんなに恵まれているのに、何故うまく生きられない。

昔から「幸せになってほしい」「どうして幸せになれないの?」と言われる。それはみんな私と関係ない/関わりたくないからそう言い捨てられるのであって、本当はみんなそういう人間を見るのが嫌だからで、哀れで、でも自分と関わるのは面倒くさいから勝手にそうなれ、ということでしょう。みんなの言う幸せな状態ってなんなんですか?それで私は救われるんですか?それで満足ですか?私自身がどうあれば幸せなのかもわからないのに、世間の持つイメージの幸せにはまることができればいいんですか?もうよくわからない。それでも明日も朝起きてまた生きてしまうんだと思う。終わらせる選択も歳を重ねれば重ねるほど取るのは難しくなっていくね。自分の気持ちだけで手放すにはあまりにも様々なものを抱え込みすぎてしまった。いつか誰かが刺してくれるのを待つのみです。それではさようなら。

 

 

 

眼を開くのは夜を待ってからにして

 

 

 

 

ここ1ヶ月くらいの雑記

 

 

 

/////

 


2年ぶりに会った人に「しろちゃん、キラキラしてるね」と言われた。いやどこが、相変わらずぐちゃぐちゃな人生だよ、と返したら「2年前と比べたら全然顔が違うよ、キラキラしてるのが1番だよ」と返答になっているのかよくわからない言葉を言われた。

そのあと夜の日比谷公園を散歩してる時もイルミネーションを見て「キラキラしたものは、良いね」と言っていた。

2年間、全く連絡を取ってなくて(喧嘩別れとかではない)うまく話せるのかしら、と思ったが会った途端お互いの話が止まらなかった。色々あったんだねえ、でもこの人が写真続けてるなら良かった。としみじみ思った。

 


/////

 


いつものように歯を磨こうとしたら突然口の中がしょっぱさでいっぱいになってついに自分の舌は終わったんだ…と思ったら新しい歯磨き粉が塩入りのやつだった。舌が終わってなくてよかった。まだ慣れない。

 


/////

 


SNSから流れてくる情報量に辟易して、1週間くらい全部見るのをやめていた。考えることも放棄したくてずっとmerzbowを聴いていた。ノイズ音楽は心が穏やかになるから良い。

 


/////

 


2年半以上働いている職場のバイトから正社員になった。

ずっとそういうものに属することが怖くて逃げてきたところもあったけど、とりあえず一回やってみるかということで悩んだ結果受け入れることにした。とりあえず2年やってみてまたその時考えることにする。

しかし既に仕事が増えていてもう心が折れそう。

 


/////

 


最近、寝る前に映画を1本観ている。

自宅で能動的に映画を観ること、めちゃくちゃ気合を入れないと行動に移せないので苦手だったのだが、ふと始めたら慣れたのかあまりハードルの高い行為ではなくなってきた。

今はまだ観れていなかった黒沢清の作品や勧められた作品を観ている。観たいものが沢山あるが、そういうのに限って大体Netflixアマゾンプライムに無い。最寄駅のTSUTAYAは品揃えが悪すぎて毎回取り寄せているので普通の旧作より倍の値段かかっている。

サスペンスや暴力とか暗い映画ばかり観てるのでそろそろもう少し明るい作品を選びたい。

 


/////

 


全然知らない人にニコニコしている。携帯で当たり障りない会話の返事を無感情で打ち込む。それっぽいこと言ってそれっぽいことをする。なんでやってんだとも思うけど、これはぬるい自傷行為みたいなもんでそうすることで現実を見ることを避けている(毎晩寝不足になりながら観る映画だってそうだ)。

早く全部大丈夫になりたい。本当に大丈夫になりたいのか?

 

 

 

 

 

 

 

そこで照らされておいて

 

 

 

ある日、部屋の電気を消して寝ようとしたら満月の光がベッドをぼんやりと照らしていた。ああ満月って明るいんだな、磨りガラス越しに見る月は大きい靄みたいになってて丸くないな、正円として明るさで存在を放っているのはすごいな?とかよくわからないことを思った。

見える部分に輝きや尊さを見出しているだけなのかもよ?なんて捻くれたことも後追いでやってくる。

 


日々。街で聞いた救急車の音が自分に刺さるようで耳を塞いでしまう。生きるために泣いている子供の泣き声にこっちが泣きそうになってしまう。電車の中で愛の言葉をささやき合う恋人同士の声が耳に注ぎ込まれている気がする。さっきから隣の部屋と下のリビングのテレビの音がドアを閉めていても聞こえている。さっきから隣の部屋と下のリビングのテレビの音がドアを閉めていても聞こえている。さっきから隣の部屋と下のリビングのテレビの音がドアを閉めていても聞こえている。さっきから隣の部屋と下のリビングのテレビの音がドアを閉めていても聞こえている。

聞こえている。

 


誰もいない水辺で内緒話してるみたいに擦れ合う草の音は安全・安心だった。安らかな全て。安らかな心。どうか、もう、そうなってもらえないか、と窓から射す満月の光が照らす薄暗い部屋の中で祈るように思うことは、自分勝手で傲慢でわがままだと笑われてしまうんでしょうか。そう思ってしまうのは、自分が本当はそれらに対して恐怖を抱いているからなのでしょうか。どういったものかもわからないのに欲しいと思ってしまうのは、子供じみていると笑われますか。

 

 

 

 

 

フィクションです

 

鏡で見る自分の顔面が日に日に歪んでいくような気がしている。
いつまでたっても上達しない、似合わない化粧で誤魔化していた顔面も自意識には見破られていたようで、吐き気と嫌悪がこみ上げてくる朝。
こんな顔で外に晒されなければならない。
他者がどうとかというよりも、自分がまず許せなくて、鏡の前に行く度「気持ちが悪いな」と頭の中でつぶやいている。
ひとつのアイシャドウをなくなってしまうまで使う。
自分の顔なんて誰も見ていないし、視界に入ったとしても数秒足りとも脳のメモリを使わずに消えていくような存在ではあるが、それでも外に出ることに結構な体力を費やさなくてはならない。えいや!と心の中で唱えながら自室のドアを開けています。

 

死ねないから生きているようなものだが。

 

使い古された嘘、と誰しもがわかるような、察しろと言わんばかりの言葉が最新の文明で送られてくるのは現代への皮肉か何かか、と思いながら当たり障りない返信をなんとも思っていないような顔で、最新の文明を使い返答するわけです。
それでもほしいものぜんぶ手の中に入れてしまえるのでしょう。

 

本当に必要なもの、の「本当」など、存在しないホログラムのようなものなので、手を伸ばしつつ最初から掴むことができない存在だとはわかっているものの、現実逃避も兼ねて動く手は相変わらず空を切ることしかできないままの毎日ですが、そちらはお元気ですか。

 

わたしは今日も元気です。

 

 

左腕だけ冷えてる

 

 

2019年。別段何が変わったというわけではないがいよいよだな、いよいよだよ、という思いが強くなっていく。終バスを逃して夜中に歩いていると「横断者に注意、スピード落とせ」の看板を見た。私は横断者側だった。歩いていたのでマフラーを巻くのを忘れていた。世間一般の若さ、若さ、若さ、にぶん殴られている毎日。「わかる」ということから逃げ出したくて詩を読んでいる。わからないことがわかる。なにもわかっていないということがわかる。ということがすべてわからない。最近の移動中は小笠原鳥類の詩集を読んでいるのでこの文章も早速影響を受けている。おはようございます(リスペクト)。質問の意味をすぐに理解できず自分でもよくわからないことを口にしてニコニコしてしまうことが増えた。脳の壊死しているところがどんどん広がっている気分が何年も前から続いている。生活の中でピアス、指輪、刺青、の存在を改めて認識すると無機質な、硬い物質が自分の身体にあるのだ、ということに安心してしまう。簡単に形が変わらないものを潜在的に求めている。ない。安心という手に入らない概念を身に付けて安心している気分を得ている。恋愛というものから遠ざかりたくて誰かのなにかに救いを求めてしまうのをやめたくて自分がそういう感情を持ってしまうことでもう誰にも迷惑をかけたくなくて、なるべく焦点を合わさないように生活をする。少しマシになってきました。いつだって泣ける準備ができているのにいざ泣きそうになると「何に泣いているんだ」と思う。他人事。でもどこかで共感で泣いているんだろうなと考えてしまう。創作に救いを求めて救われた気になるな。人生イズベリーハードにしているのは紛れもなく己自身。生きづらく死にづらい。「お客さまご覧くださいこのとおり!」と通販番組のアドバイザーの声に従って瞬き禁止でご注目(ここまでテンプレ)。真っ黒が真っ白になっているのですばらしいのだと言っている。すばらしいのだと言っている?画面の向こうではこのために作られた擬似的な黒いものがたくさん落ちている。落ちたということは消えたということではないのか。通販番組が続く限り落ち続けているのだなあと思う。いいものだけを紹介されている。「人生 求人」とindeedで検索するのをやめたほうが健康にいい。自分と関わってくれている人に頭を向けて寝られないので昔のダゲレオタイプの撮影みたく身体を機器で固定して寝よう。黒沢清監督が好きなのにまだ『ダゲレオタイプの女』を観れていない。

 


ぼーっとしていても生ハムは今日もおいしい。味がするから。それはうれしい。なのでまだ大丈夫なのだと思う。元気です(笑顔でダブルピースしてジャンプ)。

 

 

 

彼らの重力が伸び、後ろに座っている

 

 

「また」の約束もしないまま夜は終わって朝が来るのだろう。
半覚醒を示す眼に容赦なく黄色い太陽光は突き刺さる。この朝を再び思い出すことはそう遠くない。
記憶が曖昧に溶けて嘘も本当も無くしていく。それだけが救いでもあり死因にもなる。

何が事実か虚構なのかを明らかにすることだけが人生の正しさではないだろう。
白黒どちらかを求められる毎日だが主にあるのはどちらかよりのグレー。
完全に染まる方がむしろ容易いと思ってしまうくらいに、曖昧な領域で生きている。生かされている。

 

上の文章はミツメの「エスパー」を聴きながら書いた記憶がある(携帯のメモ帳に残っていた)。

『約束さえもしないまま/夜は更ける』という歌詞がすごく刺さってくる時期だった。

 

***

 

はてなブログから「1年前に書いた記事を振り返りませんか」みたいなメールがたまに来る。昨日も来た。

更新頻度が低いから1年前と言われてもすぐに遡れるけど、素直に従ってその記事を読み返したら新しいバイトを始めたことと5月の気候にやられていることが書かれていた。バイトはまだ継続中だが、相変わらず5月の気候にはぼこぼこにされている。

季節と季節の間はどうして過剰に感傷的になってしまうのか。そしてその感傷ははたしてポーズではないのか、と既に蒸し暑い自室で扇風機の風に当たりながらそんなことを考えてしまう。

 

***

 

いつも極端な結論を出して動いてしまうのだが、周りの人間の話を聞いていると、どうやらそういうことは大人はしないらしい。効率化、時間の短縮、無駄な労力を使わない、それが大人なんだそうだ。自分も自然にそうなってゆくものだと思っていたし、そうなればもっと生きやすくなるんじゃないかという希望的観測もあった。

が、一向にそうなる気配はなく、相変わらずじたばた四肢を動かして地面を這いつくばっている。全然進んでいない。周りはちゃんと2足歩行でどんどん前に進んでいる。

ここまで書いたが決して「大人にならない自分かっこいい」とかそういう話ではない。精神的成長が圧倒的に遅れている。切実に困っている。

こう書いたものの結局自分に足りないのは「我慢」なのではないか?と思う。20代も半ばで小学生ですら出来るようなことで悩んでいる。周りと悩みの話が合わないのはこういうことか。ここまでくると笑うしかない(笑ってる場合ではないのはよくわかってるけどとりあえず笑わせてくれ、先日26歳になりました)。

我慢ができずに行動してしまうのは根っからの破滅願望も強い。本当は悪い方に転んで欲しくなんかないのに(もうどうにでもなってしまえ)(どうせまただめなのだから)(自分にはそういう結果が似合っている)(これは戒めなのだ)という前提があるものだから、結果が分かっていても止められない。しかしそれは関わる人間にも迷惑をかけている。その事に気付くのに時間がかかってしまった。今までどれほどの人たちを傷つけて今ここに立っているのか、と考えて眠れなくなる日もある。償うとするならこれから少しでも傷つけないように頑張って生きる、以外にないのだけれど。それでも振り返って真っ暗な空間を見つめてしまう。

こんなことをもう何年も繰り返し思ったりこういうところに書いたりしているけど、毎晩泣いていた10代の頃や大学生の頃に比べたらだいぶ精神は安定してきている。でもそれは殆ど諦めから来ているのだろうし、未だに不安や寂しさにぺしゃんこになってしまいそうな毎日だけど、それでもかなりましになった。

昔、周りの年上の人たちは「若いうちは辛いだろうけど歳を重ねれば楽になってくるよ」と言ってくれていたのだが(今も言われてるけど)、当時はありがたさもありつつ「今すぐこの状態から脱したいのにいつまで苦しめばいいんだよ」という終わりが見えない絶望感もあった。最近はそう言っていた意味もわかる。

自分も歳下の人の話を聞いているときにその言葉を言おうか迷うときがあるのだけれど、それを言って将来もしまだ辛かったら嘘を言った事になってしまうかもしれない、と考え始めるとあまりうまくなにかを言ってあげることができない。そこまで責任を持つ必要は無いのかもしれないけど、当時の自分を思い出すとやっぱり躊躇してしまう。

でも自分が何かを言ったところで解決するのは(どうにかするのは)その人自身でしかないのだ。みんななにかしらの方法や気持ちの在り方をみつけて、それぞれの着地点を見つけてくれたら良いなと思う。そしてそれは時間が解決してくれることが多かったりする。

なんて偉そうに書いているけど、自分自身も結局「全部時間が解決する」と頭で分かりつつも苦しんだり突飛な行動に出たりしている。また破滅願望の話になるのでこの話はもうやめる。

 

***

 

毎年作品を出している/スタッフをやっている母校のOBOG展に今年は映像を展示した。

 


これで終わり

 

出演/脚本/写真/監督は自分。

撮影/編集は高校と大学の同期である友人にやってもらった。

 

死ぬ前の人間のどうということのない行動と、後半は日記のようなナレーションと写真、という構成になっている。

後半のナレーションはこのブログから取ってるものもある。念のため言っておくがこの映像は私が演じているが私自身のことではない。つまりこの映像の行動や思考はノンフィクションではない。このブログの文章使ってる時点で説得力ゼロだけど。

ただ「自分で死ぬ直前って意外とこれまでの日々と同じように過ごしてしまうんじゃないかな」とか思っていて、自分が演じることで(フィクションでの)自殺体験をしたかったのかもしれない。実際行動に移すかどうかは置いておいて、マジで死ぬ時ってどういう感じなんだろうな、みたいな。本当に死のうと思ったことは腐るほどあるけど。

 

映像の雰囲気やカットは黒沢清のような感じをイメージしながらカットや色味を考えた。黒沢清の映画を見始めたのは去年くらいからでまだはまりたてなのだけれど、あの人の撮るロングカットの不穏さや緊張感をはらんだ感じが本当に好き。

最近学生時代からの自分の撮ってきた作品を見返したら、黒沢作品によくある不穏さや「日常の中にあるものが徐々に変化していく恐怖」とほんの少しだけだけど通じるものがあって、そりゃ好きになりますわな、と思った。あと自分がドイツ写真(ざっくりとした分け方だけど)が好きなのも何となく近いような気もしている。

 

実は高校の頃短期間だけ映像研究部にもいて(メインは写真部)、いくつか短い映像を作ったりしていたけど、どれもふざけたやつだった上に1分くらいだったので、映像部分は5分くらいだけど、こんなに時間がかかるのか、、、と映像を作っている人はすごいと改めて思う。あと映像は何人もの人たちで作っているのが多いけど、ひとりで写真撮ってる身からすると体力や気持ちの使い方が全然違うのだろうなと感じた。

そんなすごいことをしている友人の仕事ぶりがわかるサイトはこちら↓

http://www.t-hosonuma.com/

 

あと自分で作った話なので自分が演じたほうが早い、と思ってたけどやっぱり演技は難しい。

 

***

 

今年の元日に引いたおみくじの恋愛の項目に「ちょっと待ちなさい」とだけ書かれていたのだが、恋愛に限らず全てのことで本当にこれを心がけないとまた泣く羽目になりそうだなと思っている。既に泣きたい出来事はたくさん起こっているけど。要は自分の感情を信じてはいけない、自分のことだけ考えない、ということに尽きる。あと期待という言葉でただの自分の希望を押し付けない、うやむやにしない。

こんなこともできないままここまできてしまったのかと思うとつくづく情けなさで生きているのが嫌になるけど、治す努力をするしかない。ただそれだけしかない。逃げるんじゃない。

 

 

 

私は元気です

 

 

 


定期的に見る怖い夢がある。
その夢を見る前は大抵予兆がある。
寝入り端、突然その夢の断片が頭に浮かんだと思えば自分に存在する亀裂から禍々しい、どす黒いものがどばっと飛び出してくるような感覚。自分でもなんだこりゃと思っているので伝わるとは思わないが、これがとにかく気持ち悪く、そして恐ろしい。一度始まると眠りにつくまで止められないので、別のことを考えてやり過ごすしかない。そしてそういうときに考えることというのは大体ろくでもない暗いものなのだ。


***


最近、自分の中にずっと巣食っていた呪いのようなものが解ける出来事があった。以降それまで自分がやってはいけないと思っていた(する権利がないと思っていた)行為にまるで好奇心旺盛な子供のように進んで向かうようになり、その間はずっと隣に座っていた寂しさや悲しさ、虚無感を忘れることができたので、精神状態は極めて良好だった。とはいえ単純に行為自体に興味があるので精神安定のためにやっているのかと言われるとまた違う気もするが、とにかくそうすることを欲していた(いる)。
この状態になったと同時に、もう誰のことも好きにならずに、世の中が決めた関係性の言葉で定義できないような、曖昧なところにいたいと思った。好きとか、嫌いとか、そういった強い断定をする/されることにもう疲れてしまった、というのが正しいのか。
刹那的な関係でも少なからず肯定感を得られるので、いわゆる長期的な関係を結ぶことすらもう要らないのではないかと思っていた。というより自分がそういう関係を持続させることに対しての自信がない(そもそも"そういう関係"の経験もないが)。だがあるとき、ある男に「全部嘘だったら、演技だったらどうする」とぼそりと言われた瞬間、脳内がぐるりと渦巻くのが分かった。
なんでそんな事を言うんだ、全てが真実で正しい感情だなんてありっこ無いのは分かってるから、それでも今だけは馬鹿みたいな顔をしてへらへら笑っていたいんだよ、自分でも自分の行動が演技みたいな、嘘っぽいと感じる時はある、それでもこういうことをするのは、生理的欲求とは別に、自分自身が存在することを許されたいからなのだと思うことも、全部わかった上で。

「私も同じかもしれないよ」としか返せなかった。


何かを決めること、断定することが恐ろしく感じている、どこかで安定を求めている自分がいることも、そしてどちらにも振り切れないことも、名前をつけてこうである、と定義しなければ、この感情も全部存在しないことになるのだろうか。


***


怖い夢は、何かをきっかけにするでもなく、忘れた頃にやってくる。
真っ白な壁の前に誰かが立っていて(それは1人のときもあれば家族のような構成の時もある)、自分はそれを斜め後ろから、かなり上の方から見ている。そして人物が立っている壁が裂け、そこから冒頭に書いたような、どす黒いものが飛び出してくる。それは俯瞰している自分の方にも襲ってくる。壁の前の人物は瞬時に亀裂から出てくるものに飲み込まれて見えなくなってしまう。それを延々と繰り返す。変わるのは人物の性別と数、年代(?)だけだ。
こう書いてみるとそれだけかという感じもするが、この夢から起床してからの疲労感と動悸は何度経験しても慣れない。生きているうちにあと何回繰り返すのだろうか?


***


へらへらと笑ってやり過ごしてきたものがどんどんやり過ごせなくなってきて、こうして未だに笑っていることすら罪であるような気もしてきている(自分がどうしようもなくても誰かを不快にさせなければいいと思っていた)。
そのうち己の存在自体が害悪であるのでは?という結論に毎度至るわけだが、じゃあ死ぬかというわけにもいかず、その辺りは大人になったなあと感じている。死ぬのにも気を使うし体力がいるのだ。単純に面倒だから行動に移さないだけで。
今の精神状態が最悪というわけではなく、呪いがどんどん解けておりむしろハッピーなのである。めちゃくちゃ元気なのである。なのでこんな文章を書いていても心配しないでほしい。しかしそれと常日頃漂っている虚無感はまた別で、これはもう幼い頃からの付き合いなのでそう簡単に手放せるものではない。愛着すらある。多分これらを抱えたまま終わっていくんだろう。満更でもない。笑顔で最期を迎えてやるからな。