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私は元気です

 

 

 


定期的に見る怖い夢がある。
その夢を見る前は大抵予兆がある。
寝入り端、突然その夢の断片が頭に浮かんだと思えば自分に存在する亀裂から禍々しい、どす黒いものがどばっと飛び出してくるような感覚。自分でもなんだこりゃと思っているので伝わるとは思わないが、これがとにかく気持ち悪く、そして恐ろしい。一度始まると眠りにつくまで止められないので、別のことを考えてやり過ごすしかない。そしてそういうときに考えることというのは大体ろくでもない暗いものなのだ。


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最近、自分の中にずっと巣食っていた呪いのようなものが解ける出来事があった。以降それまで自分がやってはいけないと思っていた(する権利がないと思っていた)行為にまるで好奇心旺盛な子供のように進んで向かうようになり、その間はずっと隣に座っていた寂しさや悲しさ、虚無感を忘れることができたので、精神状態は極めて良好だった。とはいえ単純に行為自体に興味があるので精神安定のためにやっているのかと言われるとまた違う気もするが、とにかくそうすることを欲していた(いる)。
この状態になったと同時に、もう誰のことも好きにならずに、世の中が決めた関係性の言葉で定義できないような、曖昧なところにいたいと思った。好きとか、嫌いとか、そういった強い断定をする/されることにもう疲れてしまった、というのが正しいのか。
刹那的な関係でも少なからず肯定感を得られるので、いわゆる長期的な関係を結ぶことすらもう要らないのではないかと思っていた。というより自分がそういう関係を持続させることに対しての自信がない(そもそも"そういう関係"の経験もないが)。だがあるとき、ある男に「全部嘘だったら、演技だったらどうする」とぼそりと言われた瞬間、脳内がぐるりと渦巻くのが分かった。
なんでそんな事を言うんだ、全てが真実で正しい感情だなんてありっこ無いのは分かってるから、それでも今だけは馬鹿みたいな顔をしてへらへら笑っていたいんだよ、自分でも自分の行動が演技みたいな、嘘っぽいと感じる時はある、それでもこういうことをするのは、生理的欲求とは別に、自分自身が存在することを許されたいからなのだと思うことも、全部わかった上で。

「私も同じかもしれないよ」としか返せなかった。


何かを決めること、断定することが恐ろしく感じている、どこかで安定を求めている自分がいることも、そしてどちらにも振り切れないことも、名前をつけてこうである、と定義しなければ、この感情も全部存在しないことになるのだろうか。


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怖い夢は、何かをきっかけにするでもなく、忘れた頃にやってくる。
真っ白な壁の前に誰かが立っていて(それは1人のときもあれば家族のような構成の時もある)、自分はそれを斜め後ろから、かなり上の方から見ている。そして人物が立っている壁が裂け、そこから冒頭に書いたような、どす黒いものが飛び出してくる。それは俯瞰している自分の方にも襲ってくる。壁の前の人物は瞬時に亀裂から出てくるものに飲み込まれて見えなくなってしまう。それを延々と繰り返す。変わるのは人物の性別と数、年代(?)だけだ。
こう書いてみるとそれだけかという感じもするが、この夢から起床してからの疲労感と動悸は何度経験しても慣れない。生きているうちにあと何回繰り返すのだろうか?


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へらへらと笑ってやり過ごしてきたものがどんどんやり過ごせなくなってきて、こうして未だに笑っていることすら罪であるような気もしてきている(自分がどうしようもなくても誰かを不快にさせなければいいと思っていた)。
そのうち己の存在自体が害悪であるのでは?という結論に毎度至るわけだが、じゃあ死ぬかというわけにもいかず、その辺りは大人になったなあと感じている。死ぬのにも気を使うし体力がいるのだ。単純に面倒だから行動に移さないだけで。
今の精神状態が最悪というわけではなく、呪いがどんどん解けておりむしろハッピーなのである。めちゃくちゃ元気なのである。なのでこんな文章を書いていても心配しないでほしい。しかしそれと常日頃漂っている虚無感はまた別で、これはもう幼い頃からの付き合いなのでそう簡単に手放せるものではない。愛着すらある。多分これらを抱えたまま終わっていくんだろう。満更でもない。笑顔で最期を迎えてやるからな。